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人間的に生きるって何か?

「高度医療が障害者生き残らす」阿久根市長ブログに波紋
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20091203-OYS1T00198.htm

マスコミがちょっと、はしょって書いている部分があるけど
オイラはこの意見に賛成です。

コパチは老人ホームで介護士として働いていた時に
疑問に思うことが多々ありました。

一人の利用者さんがゴムチューブみたいな「胃ろう」をつけられて延命していて
利用者さん本人は認知症により全くわからず生きています。
家族がどうしても生きさせておいて欲しいと思ってそうしているのでしょう。

「利用者さんが生きていることが家族に取っての心の支えになっているんだなあ。」と
思って見ていました。しかし、なんかふと思ったのです。
「利用者さん本人の気持ちはどこへいったのかなあ?」

「利用者さんはホントはこんなにまでして生きたいのかなあ?」という疑問が起こりました。
「あー」とか「うー」とかしか言えないようなバイオハザードのBGMみたいなものが響く老人ホーム内が
私は奇妙に思えて仕方ありません。

しかし、私は働いているうちに「こういうもの」だと思い慣れていきました。
そういう人の死に関して慣れていく自分が一番悲しかったです。


この市長さんの他にはこう述べています。
「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」

オイラは今回の地域作業学のレポートでも書いていますが
「どう生きることも大事だが、同時にどう死ぬかを考えなくてはならない」ということを
かなり強く書いています。

人は生まれてから必ず死にます。

それは生きた時間や長さではなく「その生きた質がどれくらい良かったのか?」
ということが大事に思えてくるのです。

大変楽しく面白く20年で死ぬのと
ずっとベッドに横になって80年生きるのでは
どちらが人間的ですか?

これは人それぞれの価値観になりますのでなんとも言えません。

しかし、人間は生き物の中で唯一「笑顔」が作れます。
それが行えないで80年生きるのは、とても人間的ではないように思います。
あえて言うと「人間」では無いと思います。

老人ホームでの胃ろうしてまでも生きているご老人は
いつの間にか家族にとっての自己満足の「ペット」に近い物になっているように
私は感じてしまいます。

少なくとも本人の死に対する意思を尊重することが人間的であると私は考えます。

「じゃあ、コパチ!お前はどうなんだよ!!」と言われますと
そんなこともあろうかと、一昨日に「遺書」を書きました。

先週から1週間以上続いている熱が大変苦しく生きていることが本当に嫌になりました。
「ご飯は食べても戻す」「夜は咳き込んで眠れない」「学校は休めない」
そんな毎日が待ってたら正直生きることが嫌になってしまい死ぬことは無いにしろ
もしもこのまま一人で死んだ時のために遺書を書き記しておきました。

また私は「障害があるから〜できない」という人より
「障害を持っていても〜を頑張る」という人が好きです。

昨年、右足の不自由な友達の舞踏を見に行きました。
確かに、美しさという点では全く芸術にもかかりません。
しかし、本人の一生懸命な姿は大変感動しました。

私は障害を持っていようと持っていないと
芸術としてしか作品を見ないので
あくまでも健常者と変わらなく批評するので
その人にメールでこう送りました。

「美しくない。全く芸術としては最低な舞踏だ。
しかし、あなたの生き方には涙が出るほど感動した。」

「障害」を「障害」と思っているのは実は「健常者」では無いのでしょうか?

「障害」は障害者自身が決めることです。
本人が生きるのに障害に感じたらそれが「障害」だと思います。

「生きること」や「死ぬこと」は患者本人が決められるような社会になって欲しいです。

生活保護などで「生きる権利」を主張するのも大事ですが
私は「死ぬ権利」も大事だと考えております。